アカデミっく典楽

日本音楽の源流から −吉備楽の場合 その2−

---------------------------- 吉備楽の光芒  初代楽長尾原音人以前の吉備楽から-----------------------------

吉備楽は、明治五年頃に誕生したと言われている。初代楽長尾原音人が、本格的に吉備楽をもって本教祭典奏楽へ参入してくるのは明治二十六年頃だから、その間約二十年ほど吉備楽は、少し格調の高い岡山地方で演奏される流行り歌の一つであったのだろう。この稿では、尾原が活躍する以前の吉備楽の話を中心にして、隆盛から徐々に衰微していく過程を追ってみたい。
 何分、資料のほとんど残されていない分野であり、時には推測を交えて進めていくことをご容赦いただきたい。

吉備楽の音楽性
 日本音楽研究の大家の一人である田辺尚雄は、その著書『日本音楽の研究』で「吉備楽は、平安時代の音楽に江戸音楽を加味したもの」と評し、さらに「近代で音楽らしい日本音楽が創成されたのは、吉備楽と浪花節のみ」と断言している。また、岡山県立図書館副館長で地方史研究家の岡長平は、著書『おかやま庶民史目で聞く話』の中で「吉備楽は通俗性に富んだ大衆調とでも言うものだ。それもそのはず、吉備楽は江戸唄の常磐津節の変曲なのである。」「吉備楽のミソは、常磐津の痕跡をさらに認めさせない点であろう。三味線を琴に替えて、流暢に、品よく、実に巧妙に換骨奪胎している。」とまで言い切っている。
 素人の耳で聞けば、常磐津や他の音楽の痕跡などさらさら感じられないのだが、時折、陰旋法に変調した時の箏の旋律が三味線の旋律に聞こえてしまうことがある。これなども、雅楽をベースにして、江戸音楽をうまく融合したという証左なのだろうか。その旋律を一節聴けば、それは紛れもなく「吉備楽」であり、あの独特な旋律とリズムは他の芸能音楽とは一味違った明るく伸びやかな独自の音楽として成立していると思うのは私だけではないだろう。
 
 誕生した吉備楽は、まず岡山県下の神社を中心に徐々に広がっていった。これは、創作者の岸本をはじめ弟子となった多くの者が神職であったことによると思われるが、岸本自身、吉備楽の本質を宗教音楽と捉えていたことにもよる。先年、奈良の春日大社に倭舞の習得に出向いたことも、吉備楽創作にとって大きな影響を与えたに違いない。初期の吉備楽に舞の振り付けられた曲が多いことからも、当時の岸本にとって吉備楽には舞が不可欠な要素として考えられていたのだろう。
 倭舞は、八世紀には成立していた大和歌の伴奏による古代の国風歌舞のひとつで、「和舞」「大和舞」とも記され、大和地方の風俗舞踊が起源とされている。元々は男性の舞であったが、様々な影響を受け現在では巫女舞として舞われることが多くなっている舞である。雅楽や日本音楽の楽器については精通していた岸本にとっても舞は未知の領域であったことだろう。
 舞の振り付けは、自身が習得した倭舞をもとに浅田源兵衛という振付師に協力を仰ぎ完成した。この人については、よくわからない。何の振付師であったかも不明であるが、たぶん近世謡曲に付随する舞の振付師ではないだろうかと思っている。なんでも黒住教信者のツテというから、岸本の高弟の一人であった小野元範(後の黒住教初代楽長)との縁によると思われる。
 ただ、この出会いにより、吉備楽が雅楽をベースにして同時代にはすでに営まれていた大和歌や倭舞を組み込み、さらには近世謡曲の振り付けを融合して現在の吉備楽、吉備舞が完成したのではないか、という推測が成り立つ。
 
   高崎五六の先見性
 岡山県下の神社等で行われ始めた吉備楽による演奏は、緩やかではあるが少しずつ浸透していった。その速度を飛躍的に高めたのは、初代岡山県令、高崎五六の働きによるところが大きい。。
 彼は、天保七年、維新の志士を多数輩出した鹿児島県鹿児島市で生まれた。たぶん、青年期の頃から西郷隆盛や大久保利通等の薫陶を受けてきたのだろう、幕末では各藩の連絡・調整役を務め、明治維新に貢献した。大義のためなら自らの命の一つや二つ喜んで投げ打つというバリバリの勤王の志士であった。明治八年大久保の命により、初代岡山県令(現在の知事に相当する)として赴任する。
 当時は、明治六年に行われた明治政府の地租改正政策により、全国的な争議や暴動が頻発しており、岡山県も例外ではなかった。彼は、赴任するとすぐに、反対意識の根強かった岡山県庁職員の全員クビ切りを断行した。また明治十五年には、様々な問題からメディアの山陽新報(後の山陽新聞)を五十一日間の発刊停止処分を行い、政府の方針を強行した。鬼県令、鉄腕県令といわれ悪名は高いが、岡山県の草創期から発展期に向かう道筋を定めた功績は、実に大きい県令であった。後に第十代東京府(現在の東京都)知事となり、後には男爵の地位を授けられた。
 さて、当の高崎は、県令という立場上、さまざまな場に招聘され行事に臨席する機会があったと思われるが、神道国教化政策を進める政府のもとで、岡山のどこかの神社行事に参列していたことも十分に考えられる。そして、たまたま目にし耳にした吉備楽のメロディ、吉備舞の姿に、高崎は明治という時代をけん引していく力あるいは明治という時代をあらわす象徴性を強く感じたという。
 こうして政治家高崎五六の目に留まった新興音楽吉備楽は、政治的な支援を得ることとなった。そして、折に触れて、中央政界への強力なプッシュがなされていく。そこには、高崎が「良い」と感じた確信とともに、自らが司となった岡山県に生まれた新たな芸能を、世に広めていこうとする郷土意識も働いていたと思われる。もっとも、高崎は単なる「新しもの好き」であったのかも知れない・・・・。
 ともかく、そのかいあって吉備楽は、皇族方の要請により上京、東京青山御所において皇后、皇太后への上覧演奏をはじめ、英国大使館、浜離宮、学習院などで、皇族や各界の名士が集まる中で演奏会が行われた。明治十一年のことである。当然、報道も大々的になされ、吉備楽は一躍首都圏で脚光を浴びることになった。吉備楽の持つ清新なメロディと優雅さを押し出した吉備舞は、これまでにない新しい芸能音楽として多くの人に受け入れられたのである。以後岸本による上覧演奏をはじめとした首都圏での演奏会は何度も行われたという。
 吉備楽という名称も、それまでは「吉備曲」とか「明治曲」などと呼ばれていたが、報道陣が「吉備楽」と書き立てたことから定着したと言われている。
 こうして吉備楽は、首都圏でブレイクすることで、全国的にその名を知られるようになり高い評価を受けることとなった。そして首都圏から逆流入するという形で、地元岡山に定着し展開していくこととなり多くの門人を抱えるようになった。一時期は、上流階級の子女のお稽古ごとのひとつになったという。
 
   吉備舞の完成
 田辺尚雄の著書『明治音楽物語』に興味深いエピソードが掲載されている。掻い摘んで紹介しよう。
 皇后、皇太后への上覧演奏のため上京し大好評を得た後のことである。県令の高崎は、岸本芳秀を伴い演奏会の成功を祝って、京都の祇園で宴を催した。宴席には、京都でも一流の芸妓が集まったという。高崎はこの宴席の主催者でありそれなりの貫禄もある一方で、岸本はあまり風采のあがらぬ老人に見えたのだろう。集まった芸妓たちは「なんだ田舎者が」というくらいに見下していたらしい。この様子を見て取った高崎は、「さあ、皆の者、全力を尽くして三味線を弾け。もしお前たちの中で弾いた三味線を、この老人がほめたならば、その者にはこの金貨を一掴みやろう」と傍らの革製のカバンから、十円金貨を一掴み取り出して置いたという。(当時の1円で米一表が買えた)
 喜んだ芸妓たちは、代わる代わる三味線の妙技を見せたが、岸本はニヤニヤ笑っているばかりであった。芸妓からの要望に岸本は三味線をとって弾きはじめたが、芸妓たちはその調べがわからず、「つまらない三味線」と苦笑しつつ、次々にその場を去ってしまった。しかし、一人見るからに上品な女性が残り、その演奏を称賛したという。
 その人こそ、京舞井上流の三世井上八千代となる家元片山春子であったという。高崎は岸本を紹介すると、井上の方から吉備舞を懇請し、岸本が舞うと、「先ほどの音楽には実に感服いたしましたが、ただ今の舞にはどうも感心いたしかねます」といい、自ら岸本の前で舞ったという。それを見た岸本は、真に頭が下がったという。
 この井上八千代との出会いにより、吉備舞は完成したといっていい。京舞井上流とは、京都で生まれた上方舞の一流派で、江戸時代末期に初世井上八千代が日本舞踊に宮廷文化を基盤にした優雅な舞を創始し、これを二世、三世により能や人形浄瑠璃の要素を取り入れるなど発展してきた。特に三世井上八千代は、それまでは、京都の料亭などで舞われる小規模な座敷舞であったものを、劇場での興行も可能となる「都をどり」を創始した。簡素な動きの中にもどちらかと言えば上半身に比重を置いて感情を表す舞踊である。
 「感心いたしかねます」と言った井上の言葉から、岸本はさまざまなインスピレーションを受けたであろうし、素直にその助言を受け入れたであろう。
 この後、高崎ら一行は数日京都に逗留したという。この間は、吉備楽家元と京舞井上流家元との濃密な芸の時間であったことだろう。この中から、「高砂」など数曲が京都で誕生するが、これまで半ば完成していた吉備舞は、京舞井上流の所作と精神に融合する中でさまざまにブラシアップされ品格を増していったことは想像に難くない。

   衰退の兆し
 こうして吉備楽と吉備舞はその基礎を確立し、受け継がれていくことになった。首都圏や岡山県を中心に吉備楽の紹介や慈善演奏会が行われていった。しかし、こうした吉備楽隆盛の一方で、日本音楽の主流は、確実に大きく揺れていたのである。
 まず、明治の世は、さまざまな芸能がよりどころを失い混乱する一方で、新たな時代ゆえに雨後の筍の如く新芸能が乱立した時代であったといっていい。これらの音楽は、時代に応じてさまざまに変質を模索していったと考えられるが。変化に適応できず、消滅していった芸能も決して少なくはない。
 そしてもう一つ大きなことは、明治政府の国策としての西洋音楽輸入であった。学校教育にも導入されるとともに、教材なども整備されていく。
 よく音楽の三要素ということが言われる。「リズム」「メロディ」「ハーモニー」の三つなのだが、そのうち「ハーモニー(和声)」という概念は、邦楽にはなかった。これは邦楽の進化過程を見ていけば自ずと首肯できるのだが、このことは、西洋音楽の優位性の証左とされた。当時の音楽研究者たちまでそのスタンスをとったという。明治初期の大衆には当然邦楽が根付いていたが、徐々に、というか急速に西洋音楽が浸透していったのは言うまでもない。明治後期には、滝廉太郎により日本語の歌曲やピアノ曲が作曲されるなど、日本人による西洋音楽の作曲が行われるようになった。日本のポピュラー音楽・大衆歌曲にもその浸透は早く、日本の音楽潮流は大きく洋楽へと変貌していくことになった。
 余談だが、洋楽の音楽指導は外国人の音楽教師がおこなった。邦楽は基本的に五音音楽であるが、洋楽の基本は「ドレミファソラシド」の七音である。日本人は、「ファ」と「シ」、とりわけ「シ」の音がなかなか取ることができず、外国の音楽教師をしばしば嘆息させたと伝えられている。
 初代楽長尾原音人が活躍をはじめる明治後期は、まさに邦楽と洋楽とが相錯綜し、日本の音楽自体が大きく変貌を重ねつつある時代ではなかったのかと思われる。
 
   吉備楽の立ちどころ
 吉備楽創始者の岸本芳秀は、初代家元としての栄光に包まれ、明治二十三年七十歳で帰幽した。ただ帰幽後の後継者指名がなされていなかったため、二代家元は嫡子の岸本芳武となったが、既出の田辺尚雄の文献では、実際には芳秀に直接師事した弟子のグループと、二代家元芳武のグループの二派に分かれたという。
 二代家元となった岸本芳武は、初代の生前から吉備楽の劇音楽的な面、いわゆる余興楽を中心に創作してきた人物で、その後継者となるのが、後に金光教楽長となる尾原音人である。芳秀に直接師事した弟子のグループでは、創始者芳秀の正統と思われる吉備楽が伝承されていった。その中には、後の黒住教楽長となる小野元範がいた。
 さて、明治以降の西洋音楽流入は、衰えることなく続けられていった。やはり、音楽教育の場に洋楽が導入されたことが大きい。「唱歌」が国の主導で作られ、学校で歌われるようになった。後の文部省唱歌である。
 一方、日本音楽は、時の音楽界から洋楽に対し劣位と位置付けられたこともあり、全体的な衰退を余儀なくされていた。明治から大正にかけて、時代の先端をいく音楽としてあれだけ隆盛を誇ってきた吉備楽もまた、昭和に入り急速に衰微していく。とりわけ洋楽のハイビートなリズムと変化に富んだ旋律に慣れてきた民衆は、しだいに吉備楽を悠長すぎる時代遅れの芸能としてしか顧みられなくなっていった。
 音楽には、やはり流行廃りや時代の要請があることを痛感する。時代の潮流に乗って流行したものは、いつかは飽きられ顧みられなくなるのだ。吉備楽のメロディや吉備舞の姿に、時代をけん引していく力はもはや感じることはできなかった。本来ならば、吉備楽は時代の渦に飲み込まれ消えていく運命であったのかも知れない。
 しかし、吉備楽は現代にしぶとく生き残っているのはなぜか。それは、ひとえに宗教教団の中に取り込まれ、儀式音楽として定着したからに他ならない。本教では、儀式音楽として尾原音人が持ち込み、本部をはじめ各教会で演奏されるようになった。中正楽が創始されて後、本部では中正楽が使用されるようになったが、地方では、現在に至っても吉備楽で演奏される教会が多い。また、黒住教においても、小野元範により吉備楽が持ち込まれ、教楽として位置づけられて現在でも本部や地方で演奏されている。
 尾原、小野ともに、祭典音楽として両教団内に吉備楽を持ち込み、それぞれの拠点としてこんにちまで吉備楽の命脈を保ってきた。これは顧みれば、吉備楽の本質を祭典楽であると捉えていた初代岸本にとって本望と言えるのではないだろうか。宗教音楽にとって、時代の流行り廃りはないといっていい。吉備楽は、永遠とも言える場所を確保できたと言える。
 
   最後の光芒
 最後に、芸術としての吉備楽に触れてみたい。
 戦後の吉備楽は衰微の一途をたどり、いつしか金光、黒住両教団の中で伝承されるのみになっていた。世評も、明治の一時代に隆盛を誇った芸能というような、過去のものとして扱われていた。その芸術的な評価も同様であろう。
 明治の時代、吉備楽は確かに世に訴える力を持っていたと言える。明治国学の息吹を存分に吸い込んだ吉備楽の歌詞や当時としては斬新で魅力的なメロディは、世の人々を感化し、導いていく力があるとされていた。
 それが無くなっていったのは、やはり時代の変容なのであろう。吉備楽の教授も、伝承のみに力点が置かれており、時代に沿うような旋律やリズムを持つ曲の創作などには思いも及ばなかったのではないか。これは、金光、黒住両教団を拠点にした時点で、ある程度予期されたことであろう。やはり、地盤が安定した芸能は、変化を嫌う。
 そんな中、晩年の尾原は一つの新曲を制作する。病気がちになり、自身の中に死の兆しが見え隠れするようになった頃であろうか。吉備楽の既存の枠組みを超えてみたい、尾原はそう思ったのかも知れない。
 それは、今までの吉備楽とは一線を画す革新的な曲であった。『花の吹雪』という曲である。能の「夢幻能」を彷彿とさせる曲構成、曲後半からとられる変則の拍子割りなど、吉備楽でありながら新しい魅力のあふれたこの曲は、尾原最後の曲となった。技術的な難度の高い作舞も、尾原が病の床の中から細かく指示を出しながら、娘の手により完成したと言われている。
 衰退していく吉備楽を支えてきたのは、祭典楽として演奏され伝承されてきた金光、黒住両教団の安定した土壌であった。それは言わば信仰の力と言っていいのかもしれない。しかし、晩年の尾原は、それだけでは飽き足らなかったのではないだろうか。本来の吉備楽が抱え持つ、祭典楽としての価値とともにあったであろう、人の感興を沸かせ、魂を揺すぶるような芸術的な価値を、現在の吉備楽に復活させようとしたのではないか。そう思う。
 二代岸本芳武の劇音楽としての部門を引き継いだ尾原の最後の曲「花の吹雪」は、かつての輝きを失った吉備楽の、最後の光芒であったのかも知れない。
 

参考文献 
 吉川 英史 著 『日本音楽の歴史』
 田辺 尚雄 著 『日本音楽の研究』
 田辺 尚雄 著 『明治音楽物語』
 岡  長平 著 『おかやま庶民史目で聞く話』