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日本音楽の源流から −吉備楽の場合 その1−

明治維新というきっかけ

 吉備楽は、明治5年頃に誕生したと言われている。創始者は岸本芳秀。備前岡山藩の代々篳篥で仕える楽人であった。岸本ら4人は、明治維新後の藩内領民の人心動揺を音楽により融和させようと、藩主の池田茂政公から春日神社に伝わる大和舞の習得を命じられ、奈良に赴いた。明治3年のことである。しかし、藩主の願いは残念ながらかなわず、明治4年に廃藩置県が断行されると、岡山藩は廃止されて岡山県となり、藩の楽人の職にあった岸本らは、みな解雇されてしまったのである。
 岸本ら藩の楽人たちは、何とか自活の道を講じなければならないという切迫した事情があった。そして明治維新後の社会の底が抜けたような混乱。その中で誕生したのが吉備楽であった。
 吉備楽は明治の初頭、華やかに登場してきたとのイメージで語られがちだが、一方でこのような事情を抱えていたことも留意しておかねばならない。

 明治維新後の日本音楽は、混乱の極みの中を通過していく。貴族の音楽であった雅楽、武家の式楽であった能や謡曲、幕府に手厚く保護されていた筝曲や琵琶、法具として保護されていた尺八音楽をはじめ様々な保護を受けていた邦楽の支援基盤はほぼ解体される一方で、西洋音楽の急激な流入が始まる。
 文明開化の名のもとに西洋音楽が優れ、邦楽は劣るという意識が当たり前のことになっていく。もっともこれは音楽界だけのことでなく、日本の文化全体にも言えることであった。この時期、例えば美術界でのフェノロサや岡倉天心のような日本美術の独自性を説き発信できる思想家が現れなかったことも、西洋音楽偏重の意識に歯止めがかけられなかった一因と言えるだろう。権威や経済的な保護を失った邦楽界は、それぞれが自活の道を求めて思い思いの活動を模索せざるを得ない状況からの仕切り直しとなったのである。
 明治維新とは、それほどまでに日本音楽をはじめとして、あらゆる日本の思想や経済、科学に至るまで大きく揺れ動かされた時期だったことを覚えておきたい。

日本人は歌好き、踊り好き

 さて、話を源流に戻そう。日本に音楽という文化が芽生える時期の話は、前の項で説明した。それまでの日本の音楽は「神楽など歌謡を中心としたものでありいくつか楽器も作られてはいたが、それらは歌謡の伴奏に使用するためのもので、純然たる器楽曲は成立していな」い状況であった。そんな中で、雅楽という器楽が大陸から導入される。
 ここから、器楽が国内に浸透していくかと言えば、まったくそうではなかった。極めて乱暴に言ってみれば、雅楽をはじめとする器楽は、日本音楽の本流となることはなく、独自の道を辿っていくことになる。なぜなら、雅楽という器楽は貴族というごく一部の階級に取り込まれ、国家権力と結びつくことにより、貴族以外の階級には浸透しなかったのではないかと思われる。国家統治の音楽として、他の音楽とは一線を画したということであろうか。
 しかし理由はそれだけではない。何より、日本民族は歌謡と踊りが好きだった。これに尽きると思っている。事実、天の岩戸に代表される神代の昔から明治の文明開化に至るまで、邦楽の本流は常に歌謡とそれに付随する舞踊であった。雅楽のような器楽が入ってきても、それは揺るがず、使用する楽器のみが取り込まれ、歌謡の伴奏楽器として歌謡と共に発展していくことになる。そしてさまざまな流派や新派を生み出しながらこんにちに至っている。吉備楽も、その一つとして日本音楽の裾野の一端に位置してきたのは言うまでもない。

    

歌謡のざっくりした歴史

 西洋、東洋を問わず、音楽はまず歌謡から始まる。日本人の生活の中に歌はごく自然なかたちで存在し、自らの感情や思いを何の制約もなくおおらかに歌い上げていたと思われる。その後は言語の特性にもよるのだろうが、日本の場合は、歌詞の詞型がだんだんと定まってくる。五五調や五七調の約束が生まれ、その歌詞にのっとって即興的なメロディにのせて歌い上げられていたようだ。この詞型が、やがて和歌などの詞型に発展していくことになる。
 こうして生まれた古代の歌詞は、古事記や日本書紀等にも記されている。残念ながらメロディは伝わっていないが、雅楽の中にある神楽歌や久米歌、東遊などのメロディの中にその痕跡が残されているそうだ。使用する楽器も簡素なもので、和琴の原型となるものや、神楽笛、鼓の類が伴奏用に使用されていたと考えられる。また、「天岩戸」に記されているごとく即興的な舞踊を伴う場合が多かったという。やはり日本人は歌好きに加えて踊り好きなのだ。
 その後、5世紀から8世紀にかけて、朝鮮半島や中国から雅楽をはじめとする大陸音楽が流入してくる。これは前述(中正楽の項参照)のように大陸文化全体を日本に取り込むという明確な意思をもって行われたもので、国の政策の一環であった。

 この時代、日本の音楽に大きな影響を与えたものとして、前述の器楽が持ち込まれたことと、もう一つ、宗教音楽である「声明」が持ち込まれたいうことがある。
 「声明」は、仏教音楽として6世紀に持ち込まれた。発祥はインドらしい。インドのバラモン教典の歌唱として梵語で行われていたが、中国に伝わると漢語による声明が現れ、その二つの声明が日本に伝わった。
日本では、梵語、漢語それぞれ使用されていたが、やがて日本語による「和讃」や「講式」などが生まれ仏教の儀式等に取り入れられた。
 これらの旋律は、シラビック(歌詞の一音節に一つの音符を振り当てて歌う技法)から、メリスマ(詞の一音節に複数の音符を振り当て装飾的に歌う技法)が多用されることとなり、日本音楽に大きな影響を与え、様々な歌謡に共通する大きな特徴となった。そう、吉備楽の歌詞の母音が、音程を変化させながらやたらに伸びるというあれだ。

 こうして持ち込まれた大陸音楽は、日本国内で消化吸収され、徐々に独自のものが生み出されていくことになる。
 器楽である雅楽と盲僧琵琶(視覚障害のある僧侶が、仏教儀式の前に行った琵琶による語り歌が始まりとされる)、声明が融合し、「平曲(琵琶による平家物語の朗誦)」が誕生する。また、「早歌(そうが)」や舞踊を含んだ「田楽(でんがく)」や「猿楽(さるがく)」などが生まれた。とりわけ「猿楽」は、徐々に隆盛を重ね、室町時代初期には「能楽(のうがく)」として大成する。
 室町時代から戦国時代にかけては、日本音楽が様々な淘汰や融合を繰り返す中で、近世に向けた音楽を準備した時代であった。そして江戸初期にかけて、それらが一気に開花する。そのきっかけとなったのは、一つの楽器。そう、三味線の登場である。

 三味線は、日本に伝わると独自の改造が加えられて江戸時代初期には完成し、その後の日本音楽に大きな影響を及ぼした楽器だ。まず、琵琶法師たちに伝わり、平曲に加えていくつかの物語を、三味線に持ちかえて語りはじめ、やがて語り物音楽の代表ともなる「浄瑠璃(じょうるり)」が生まれ、さらには人形を使用する劇音楽「文楽(人形浄瑠璃)」へとつながっていく。また、民謡や当時の流行歌を三味線の伴奏により歌う、三味線組歌が生まれるなど、以降様々な芸能音楽が派生していく。江戸幕府の鎖国政策や厳格な身分制度の運用の中にあって、複雑な系譜の説明は省くが、「地歌」「義太夫」「長唄」「小唄」「常磐津」「清本」「新内」など新興の歌謡が生まれる一方で、筝曲なども当道組織(視覚障害を持つ人々の組織で、江戸幕府により保護された)のもとで独自の進展を重ね名人や名曲を生み出していく。さらにこのような動きは、「語り」や舞踊を交えての総合的な音楽芸術とも言える、「歌舞伎」に昇華していく。これらは、まさに日本人全体の8割を越えると言われる庶民の音楽として百花繚乱の隆盛をもたらすに至る。
 日本音楽と言えば、この時代の近世邦楽を指すというくらいに、江戸時代は、現在でも演奏される多様な音楽を輩出した期間であった。その中から「歌舞伎」という、「語り」や「歌い」と舞踊が取り込まれた芸能が完成する。この世界に誇る日本文化の中に、日本人の嗜好が読み取れる。そう、やはり日本人は歌好き舞踊好きなのだ。
 
「日本音楽の源流から −吉備楽の場合 その2−」に続く    

※ 本記述は、本HP管理人の私的なものであり、典楽会の公的な見解ではありません。

参考文献 
 吉川 英史 著 『日本音楽の歴史』
 星  旭  著 『日本音楽の歴史と鑑賞』