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日本音楽の源流から −中正楽の場合 その2−
 1.雅楽寮の設置と音楽の日本化
 この当時、日本の文化の担い手は、「貴族」と呼ばれる、特権階級の人々であった。「貴族」については、割とよく聞く言葉であり、おおよそのイメージは誰でも思い浮かぶのだが、定義するとなるとなかなかむつかしい。
広義には、庶民に対してのそれだが、狭義には、そうとう単純に言えば宮中を中心とした統治機構の中の上層階級、律令制下での位階が五位以上人々を言うのだそうだ。その数は家族を含め大体五、六百名くらい。当時の人口が平安時代では600万人と言われているからおよそ一万分の一の比率となる。まさに貴族は希族なのだ。こうした人々が、国家行事での演奏とは別に、輸入された音楽を学び、たしなんでいたと考えられる。

 一方、雅楽でない音楽は、というと、やはり同様に持ち込まれていたと考えられるが、701年の大宝律令により、「雅楽寮(うたまいのつかさ)」設置をはじめとして、その後何回かの制度改革により、大陸から持ち込まれた音楽と日本古来の音楽が整理統合され、国家が管理・伝承していくものと、そうでないものとに振り分けられることになった。
 これは国家運営において、音楽が及ぼす効果が少なからずあるとの認識が広がっていたことによるが、もう一つ、これまで大陸からの無制限の音楽導入の一方で、神楽や東遊びなどの日本古来から伝えられてきた歌謡も保存していく要があるとの認識が芽生えてきたということでもある。大陸の音楽を何でもかんでも持ち込んだ後、ふと後ろを振り返れば、古来から伝わる歌謡が厳然として伝えられていることに気づいたのだろう。これは音楽だけではない。日本で営まれていた文化全般に言えることである。
 折しも、中国「唐」政権が権威を失い治安が乱れる時期と重なり、中国への遣唐使派遣は中断され、大陸からの文化導入はなくなる。
 そして、そのまま持ち込まれた大陸の文化は、日本という環境や民族意識に馴染むように消化していこうとする機運が生まれる。様々な分野で、融合や淘汰による日本化の営みが行われ、徐々に日本文化へと変容していくことになる。いわゆる「国風文化」と呼ばれるものである。かな文字の発明をはじめ、建築、文学、美術等いたるところで、新しい文化が花開いたことは言うまでもない。
 雅楽寮の設置は、当時の日本に伝えられている音楽を、聖なるものと、そうでないものとに二分する営みであったと思われる。
 聖なる音楽は、こんにちの雅楽として日本の統治階級というか上流階級というか、貴族の音楽として受け入れられ、以後国の庇護と管理のもとに、一定の社会的位置づけを得て伝承され、宮中をはじめとした祭儀音楽として今日まで、さしたる変革が行われることなく伝承されていくことになる。雅楽が1300年前の面影を現在にとどめているのはこのためだ。
 そうでないものは、俗楽として民衆に開放され、自由な発想と取り組みの中で、時代の空気を折々に取り込みながら変容を繰り返して、淘汰されないものが今日に伝わっていくことになった。そして、この俗楽が日本音楽の主流として、さまざまな変容や融合や分裂を繰り返しつつ、すそ野を広げていくことになる。


2.日本音楽の特徴
 日本民族は、歌謡と舞踏が古来から大好きだそうだ。もっともこの現象は世界的なものであり、どの地域でもはじめは歌を中心とした音楽が定着していたというが、現在の日本のように歌謡以外のもの、器楽の曲が圧倒的に少ない民族は他にないという。こんにちの雅楽に含まれる「朗詠」や「催馬楽」など大陸音楽の輸入後、平安朝の初期に発生した音楽も、歌謡が中心であり楽器は伴奏に用いるのみだ。まあ、古事記にある天岩戸伝説からがそうであり、現在の状況を眺めても主流になっているのは、歌舞伎や浄瑠璃、長唄、小唄、吟詠、どれをとっても歌謡と舞踊によるものだ。声明も仏教音楽として現役だし、民謡も根強く残っており愛好者は想像以上に多い。まあ間違いのないところだろう。
 この日本音楽について、日本音楽研究者の吉川英史氏は、他の民族に見られない日本人の独特な音楽的美意識として次の四つの特徴を挙げている。

 1.音色尊重、2.単音愛好性、3.余韻愛好性、4.噪音愛好性。

 日本音楽には和声がないし、大編成の楽曲がほぼ見当たらない。このことは洋楽の優位性を指摘する上での有力な証左と言われてている。しかし、民族的な嗜好として、第一に音色尊重を掲げる日本音楽では、和声という音の重なりやそれを構成する複雑さよりも、音自体が抱える微妙な成分を味わうことが大切なことであったのだろう。それを味わうには、大編成の音の洪水の中では味わいようがない。それで、大編成の音楽は発達しなかったといえる。単音愛好性、余韻愛好性もこのことに付随してのことと思われる。
 もう一つの「噪音愛好性」も音色を味わおうとする中から好まれた。洋楽では、歌謡の場合ムラのない澄んだ美しい響きを持つ声が好まれるが、日本音楽では決してそうではない。むしろ、こうした歌声を単純で深みのない素人声として嫌う傾向にある。音色の深みを増すために日本音楽が選択したこと、それは澄んだ音以外のもの「噪音」を混ぜることであった。
 ものの擦れる音、ものがぶつかる音、基準音以外の不規則な倍音。風の音、虫の鳴き声にいたるまで音色として取り込み、音の深みとしたのだ。和琴の「撥音」、能で言う「残声」、三味線の「サワリ」、尺八の「ムラ息」、どれも日本人の基底にある「噪音愛好性」から紡ぎ出されたものであり、他国の音楽には見られないという。平安朝における「もののあはれ」、室町期における「わびさび」など、日本人のもつ嗜好性がさまざまな文化に影響を与えたことは、いうまでもない。

 さて、話を雅楽に戻そう。国の庇護と管理のもとでに伝承されることになった雅楽は、貴族の音楽として宮中をはじめとした祭儀音楽として伝承されていく。ここでは、伝統的な「かたち」が尊重され、自由な発想や取り組みはほとんどなかったようだ。往々にして、文化は権力を持つ団体に取り込まれると、自由な取り組みが阻害され、進展が止まると言われるが、やはり、国という最高権力がバックにつくとそうなるのだろう。
 ただ、国が貴族政権から武士による政権となる鎌倉時代を迎えると、雅楽は急速に衰微していく。そして貴族=公家の音楽として、他の音楽とは交わることなく孤高の存在として、以後宮中や、神社、寺院などで伝承され明治維新を迎えることになる。
 
 
 3.中正楽の誕生
 雅楽は、ここまでの歴史の中で、消滅の危機を迎えたことがある。
 室町期の応仁の乱であった。この戦乱により、公家の中心地であった京都はその大半を焼失し、焼け出された楽人たちは四散することとなり、貴重な楽譜や楽器、舞装束の大半が焼失した。それとともに、多くの演奏技法や曲目が失われ、宮廷音楽としての雅楽はその機能を失い、以後残った楽所や楽人により細々と伝承される状態が続くことになる。一方、四天王寺など、京都から離れ乱の影響を直接受けることのなかった寺社では、組織的な教授・伝承が可能であったため、後に宮中雅楽の復興に大きくかかわることになる。

 江戸幕府の時代になると、政治的にも雅楽復興を推し進めていく。それに伴い、雅楽を愛好する大名や儒者も現れ、雅楽を教授・伝承していく基盤が安定することになるが、応仁の乱で失われたものの復興と伝承に力点が置かれ、音楽的にはさしたる変化はなかったようである。
 明治維新により、再び停止されていた外来音楽が輸入されるようになると、西洋文化最良の潮流の中で日本音楽は西洋音楽に席巻されることになる。雅楽も例外ではなかったが、明治政府は雅楽局を設置して、楽人を東京に集結させ、地域により相違のあった演奏法や舞の振り付け、曲目を統一していくことに重点をおくことになる。そして以後、雅楽は宮廷祭儀の式楽としての道をたどることになるのだ。
 雅楽のこのような歴史的背景をもって、中正楽は大正年間に誕生した。国の誕生から明治にいたる歴史を再俯瞰すれば、大陸音楽を輸入し国風文化による音楽の日本化を経て、雅楽は中国にも韓国にもない音楽として誕生したと言っていい。そこからの歩みは、伝承に力点を置いたものであり、何らかの新たな音楽の創造には縁がなかったようだ。つまり、平安朝に確立した雅楽の演奏技法や様式がそのまま今日に伝わっているということになる。当然、時代時代の思想的な影響があるかもしれないが、枠組みや形式はたぶん変わっていない。

 中正楽を、「明治以降の洋楽流入に影響を受けた、雅楽の派生形態」とみる向きもあるようだが、個人的には
その痕跡は軽微であり(何曲かは旋律重視の曲がある)、本来の雅楽の伝統にのっとって制作されたと思われる。
 したがって、この音楽は、前出の吉川氏の著作にある「奇をねらったり、人の意表に出ることをしない。調和と中正と平静とを尊ぶのである。」との言葉通りの、人の感情に訴える音楽ではなく、調和と理性を尊ぶ神の喜ばれる音楽としてこの世に創出されたとの認識に至るのだ。
 中正楽の性格を作曲者の尾原音人自身「雅をとり俗を去り古今を折衷して、音譜新になり、専ら金光教礼典に用ふる楽となす」と表明している。ここで尾原が志向しているのは、世にある音楽を、雅楽という基本的な立場から洗い出し、改めて「雅をとり俗を去り」して新たな音楽を創造したということであり、尾原はあくまでも新たな音楽として世に出したのに違いないと思われる。それは、音楽の系統や種別、奏法の違いからのものではなく、神に向かう音楽、神と共にあろうとする音楽として、これまでの音楽とは一線を画したものであったのだろう。
 ときどき、「この中正楽はどういう気持ちで演奏すればいいのか」との質問をする人がいるが、その答えに困ってしまう。たぶんその方は、洋楽的な発想の線上で聞かれているに違いないのだろう。しかし、中正楽の音楽性はその次元にはない、あるいはその対極にあると言えるのだ。
 極めて乱暴にいえば、洋楽を人のさまざまな思いを音譜に込めて演奏する感情の音楽とすれば、雅楽はそうした機微を離れ、ひたすら天地宇宙の運行の在りようを音に表す理性の音楽なのだろう。洋楽的な発想の線上からいえば、天地宇宙の中で生かされて生きている生命あるものすべてを代表し、そのことに感謝する音楽と言えるのかもしれない。
 そのような音楽を演奏できる機会を得て、われわれはほんとうに幸せ者であると思う。
 

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